2019.03.16

間が空いてしまいました。

走り書きの備忘録。


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「Giant Chorus」渡邉 庸平 


渡邉庸平くんは1990年生まれ、私と同学年の作家。

彼の作品は学部生の頃から知っていて、その頃の私は現代美術という言葉を知らない頃でしたが、それはどうしても記憶に残るものでした。中でも彼の在学中の作品で記憶に残っているのは、虫眼鏡を使った映像でルーペに光が透過している作品。

彼の映像はいつも、作品の主題とは別に、映像それ自体が物を語る厚みを持っていて、そのお陰で私は美術の知識が無くても穏やかに彼の作品と対峙することができたことを覚えています。

視界のクリアなレンズで見ているかのような、触覚に近い気持ちの良さと、題材を確かにしっかりと物語ってくれる安定感。この2つをいつも感じていたように思います。

 


2017年の駒込倉庫や2018年の4649の展示を経て、ついにHAGIWARA PROJECTSでの個展開催、と聞き及び。私は純粋に渡邉くんの活躍を喜ばしく思って、勤め先を早退けしてオープニングへ向かいました。

(渡邉くんのツイートをすっかり見忘れていて。教えてくださった萩原さん、ありがとうございます。)

 


展示されていたのは「ジャイアントコーラス」という新作。

展示空間の正面壁に、レーザーの細い光線がうねるように踊りながら人の横顔のようなものを描き出す。

白い壁に映されるその青白い描線は明滅しながら形を変え、横顔の巨人が起き上がったり動いたりしているようなモーションを繰り返す。

オープニングの盛況のせいで展示物全体を把握するのが困難な状況でしたが、床には金属製の枠で組み立てられたような造型物が並んでいて、これは何かと思った時にちょうど「これはノの字型で、曲面がある金属と想像してみて」とテキストを執筆したI岡くんと遭遇。そこでふっと作品を掴むことができました。

 


映像を投影するときに光源とスクリーンの間に降り注ぐ塵を扱った過去作とも通じるように、床に置かれた造型物は展示空間の光や空気の流れなどを受け止めるかのように計算されて配置されていて、そのノの字の形に湾曲した不在の曲面があたかも反射をしている仕掛けになっています。(設置されているI岡くんの文章を読むとわかり良いかもしれません)

 

会場の右壁に展示された白黒プリントには、不在の面によって気流を変えられたこの空間での空気の流れを差す向きを、床に散らばった薔薇のトゲが指し示す様子が撮影されていて、

一方で会場には、トゲのない薔薇が瓶に生けられていることに気づきます。

実空間では薔薇のトゲさえも不在であり、壁面のプリントはまるで眼前で展示されている映像とは異なるパラレルワールドで撮影されたかのよう。

置き去りにされたイメージの中に残された手がかりから不在のものを追うような感覚と構造は、今年2月のmumeiでの展示「密度とエコー」での村田啓さんの写真作品とも繋がっているようにも感じました。(村田さんは渡邉くんと同じアトリエの作家です。チェス盤を動く駒を追ったカメラの視点、そのカメラが捉えられない死角が黒く映し出されている作品は、タイトルも"白兎を追う"というもの。)


私たちが見る事ができないもう一つの世界が、レンズの向こうに立ち現れる。

それはSF空間のようでも、世界の裏側の神話の世界のようでもあり。

彼の作品に度々現れる「巨人」は、かつての神話では神々のことを指す言葉であったことを思い出す。

 


不在のイメージである巨人が、不在の面の向こう側に立ち現れる。

 


写真や映像とはここにないものを残し、映し出す装置として生まれてきたものだが、スコープを通って通り抜けていく光線が描き出すその像は、無限にも拡大され、また逆に小さくもなりうる。

そして私たちは元の像がどれほど大きなものだったかを確認することはできない。

そこには、主観の位置、スケール、その測り方といった、私たちの認識と想像力が関わってくるものです。

 


形態を変えながらもこの同じ主題を扱う渡邉くんという作家は、

私たちの世界の捉え方について、空間や座標といった科学的認識を扱いながら、

私たちが未だ見ぬ時空間や平行世界とも繋がるような、次元を超えることのできる力を持っている一人なのだろうと思います。


映像からインスタレーションと、作品は強度を保ちながら拡張を続け、

巨人はゆっくりと動き出し、またどこかで違う形で現れるのだろうと、それが今から待ち遠しくなる展覧会でした。