2025.01.11

 

東京都写真美術館で上映された、斎藤玲児さんの撮った金川晋吾さんとそのお父さんとの映像≪father 2024≫がとてもよかった。

 

金川さんが執筆された『いなくなっていない父』を年始に読んでいたから、その物語の続きとして感受されてしまう。
実際、金川さんはお父さんにその本を読んでいてくださいと伝えてから撮っていたから、そこから接続される映像と言ってもいいような気もする。

会場のあたりが暗くなるとすぐに、お父さんと金川さんが映し出される。
画面右手前にお父さん、奥に金川さん。映る面積としてもお父さんが主役なのは間違いなく、隣り合って座る二人はとても近い距離で話している。それに並ぶように手前に、玲児さんが手持ちで構えるカメラがあるようだ。

 

『いなくなっていない父』を読んだかどうか、金川さんからお父さんに質問が交わされる。
読んでいない。読んでいないことについてのお父さんの不器用で丁寧な、返答。過去に対する自分の認識、体の不調について、自分の心と体の持ちようとの関係。
なるほど、そうか、と肩透かしを食らうようでいて、それを受け止めるような、被写体の父に向き合う金川さんは、お父さんがもつ金川さんへの距離とは別の距離感を持って、お父さんを尊重しているようにも見える。
それは親子の会話というより丁寧な取材に近い感覚で、相手に対してこうあってほしいという押し付けがなく、取材対象の言葉をそのままに促しつつ確認していく作業のよう。
お互いの見ている世界が違うことを尊重する姿。それと同時に、親子で肩が触れるほど近くにいても他者であるという、決して接続しない孤独の尊さ。

 

お父さんの水のように素直な返答や応答、本にも書かれていたようにカメラを意識しないような澄み切った答え方。
時折、家を出て戻ることがなかった、金川さんのお父さん。
平静に見えたようで色々なことが本当は気になっていたと答えていたお父さんは、何者にも毒されない自分の領域を侵されないように、澄ませてきたのだろうと勝手に想像する。そのなかに静かな湖畔のようなものを感じる。
茨木のり子の詩に『みずうみ』というのがある。人は心の中にみな、湖をもつようにと語られている。

 


それこそ しいんと落ちついて
容易に増えも減りもしない自分の湖
さらさらと他人の降りてはゆけない魔の湖

教養や学歴とはなんの関係もないらしい
人間の魅力とは
たぶんその湖のあたりから
発する霧だ

 

 

映像のなかでもっと切ないのは、金川さんが撮影を始めた頃から年月が経っていて、お父さんがもう死期も覚悟していること。

その口ぶりは子に対して、自分が死んだらどうなるか、どうするかというのを心配するような体ではなくて、ただただ自分が70代になっていつ死ぬかもわからない年齢になったから、それを見据えているということを淡々と述べていた。

人はただ生きて、ただ死ぬという事実。


金川さんの本の中で、お父さんのことを心配して精神科のドクターに相談したときに、人が生きていくことにとって、何かすることとしないことの間に大きな差はあるのかと投げかけられるシーンがあった。
人の生は役割や何ができるかでは無い。これが福祉に関わる本だということをはっきりと感じさせる一節だった。


人がどう生きてどう死ぬか、どう関わっていくのか。


一人一人の幸福追求権を保障する福祉は、家族というコミュニティや制度よりも先立って存在していて、そして私たちは束縛されず自由で、不完全で、そのなかで繋がりあったりしている。

 

今回の映像は、金川さんのまた別の、血は繋がっていない、でも一緒に住む家族である、斎藤玲児さんが撮影している。

玲児さんは映像作家であり、収集した映像の束からその質感や表面をパッチワークするようにつなげて制作することで知られている。映像データでは映りきらない解像度の中に、視覚が触れることのできる限界距離があり、それは視覚だけでなく物理的な境界でもある。そこに息づく画面に、無常の切なさをいつも感じる。いずれ朽ちていく永遠の被膜を透ける映像の光。それは理性的な概念よりももっと曖昧模糊なまま、感覚に直接訴えかける言語を強く持つ映像作品だといつも感じる。


対して金川さんの写真はとても明るくはっきりと写る写真が多い印象で、質量を持つその存在に対しては曖昧さを許さないような、そうした真っ直ぐさで撮られているように思える。人を信じている、というとおかしいけれど、質量を持った個体たちを信じながら、その中にある人間という概念の世界の存在を追いかけているように思われる。

 

上映後のトークで、玲児さんは今回の映像においては撮ることの特権性が自分に確実にあることを意識して撮影されたと言う。それは家族だから、ということ。
常に人との関係性の中には不均衡が生じていて、そのなかで自分自身が持つ特権性について意識をしながら接することができることは、それだけで相手へのリスペクトがあって尊いことだと思う。その玲児さんの目線を通して見る映像。それは家族を見守る視線とも重なる。じっと声を顰めながら、それでも見留めていること。


展示室で並んでいた金川さんの新しい家族写真は、まるで兄弟のように朗らかに笑う四人の姿があって、お互いを慈しんだり思い遣ったり、大切な場面や時間を共有しているように見える。きっとここにはない、写真として展示するには憚られるような場面もたくさんあると想像するのだけど、それでもどこかそんな透明で明るい時間を過ごそう、生み出そうとしているように見ることができる。

そしていつか、この家族さえも老いていくのだろうと思う。時は待ってくれなくて永遠はなく、その一瞬を留めて写真がある。だからこれは希望であり、そして同時にいずれ遠くにいく他者で、その距離感が金川さんはとても巧みだと思う。

(ここに写る人たちを私は知っていて、だから客観視ができないようにも感じる。より温かな感情で写真を見てしまう。)

 

途中、電車の窓越しに金川さんとお父さん、お母さんを撮影する場面があった。会話の内容も聞こえず、窓越しに見ると三人は普通の家族のように見える。切り替わって三人が並ぶ車内のシーンでは、お母さんは首を縦に振りながら、晋吾さんはたまに破顔して、お父さんはじっと表情を変えずにいる。全然別の人間同士が集まって、家族になっていると感じる。


最後の締めくくりは、お母さんが歌う竹内まりやの「いのちのうた」。おもむろに始まる母の歌を聞いて、涙する金川さん。

きっと、この歌をこんな風に、お父さんは歌わないだろう。

 

取材の最中に、金川さんはカメラを取り出してお父さんを撮影する。撮影者と被写体の関係は束の間で、選手交代する。言われるがままに、お父さんが金川さんを撮る。そしてまた、金川さんがお父さんを撮影する。玲児さんのカメラが、クロースアップでお父さんの瞳を映し出す。窓ガラスから自然光の差し込む部屋。お父さんの潤んだ瞳に、その光が映り込む。片方の黒い瞳の表面に、光の差す部屋で撮影する金川さんのシルエットが映り込んでいる。カメラがゆっくりともう片方の瞳へと横へ動く。黒く潤みながらも、何も映すことのない静かな瞳へ。

2021.8.2


日記として再活用してひっそりと。

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今日は国分寺Second.2で市川明子さんの展示。


こけら落としの木下令子さんの展示以来ご無沙汰してしまっていて、一橋学園での平櫛田中館のグループ展を見た帰りにそのまま徒歩で立ち寄ることにしました。




スペースに入るとまず空間が異様でおやと思う。

絶妙なスケール感で並ぶ家や部屋を模した模型が展示然と並ぶというよりは場の中で異様な形で幅を利かせているのでした。壁にかかっているドローイングも絵というよりは、何か完成していない不思議な走り書きのよう。

どれも市川さんが2日間みた夢の中での出来事を反芻する為に作られたもので、ドローイングは夢のなかのディティールを覚えておくためのメモ書きだったそう。



ぎこちない手作りの部屋の大きさは縮小された部屋ではあるもののミニチュアサイズまではいかず、私たちの体の大きさに合わせたようなプロポーションの模型となっている。その作品を私たちは覗き込んだり、上から見下ろしてみたりする。


極端に間延びした広い部屋、延々と続くキッチンにぽつんと設置されたシンクと冷蔵庫、壁にかかった黒い抽象画。踏み外してしまいそうな細長い煉瓦の階段や大きな暗い窓。


夢の中というのはちょっとおかしいけれど、でもディティールは怖いくらいリアルだったりもする。現実のどこかにその場があるかのように。

作品の中でも家具や建物の採寸はきちんとしたスケール感で作られていて、冷蔵庫はちゃんと開くし抽象画もカンバスを張られアクリルと油彩で描かれている。


夢の中で一人称的視点から急に俯瞰するようなアングルにカットが切り替わる瞬間、市川さんの作品を見るとそのときのような幽体離脱的感覚に陥る。

ストップモーションアニメの人形劇の舞台セットのようで、そこには誰もが不在なので夢の主体というのはどこにあるのだろうと思う。ここには市川さんもどこか不在のように感じる。



「夢の中で私の身体はそこにあった」という展示タイトルは夢の体験を現実に即した身体と結びつかせるのと同時に、ここは夢の中ではないということを突きつけるまた別の体験を示唆していて、ただ私たちはそのざらりとする境界に触れることができる。



境界について考えながら、マーク・マンダースの不在展を思い出す。あの巨大なセットのような展示空間にも、彼のための家具が88%に縮小されて自らの存在から離れたものとして存在する違和感という境界があり、あれも現実のままに夢の中に迷い込んだような展示でした。




一つ前に展示されていた神祥子さんの作品も見せていただき、反射や投影を扱う神さんの作品も画面の中のレイヤーは穏やかさを保っていても、描かれた顔のないような白い相貌の人物やチューリップを見ているとどこか危うい眩暈のような感覚があります。


神さんの作品も夢を追いかけ続けると危ない、ドッペルゲンガーに会うと死んでしまうという妖しい魅力も感じさせつつ、それでいて2人ともどこか淡白に穏やかにその現象を見つめているところに表現の強度があるようです。



古物にもきっとそうした様々な夢の宿りがあるので、Secondの1期のラインナップは頷けるもの。これから先の展示もまた折りを見て伺えたらと楽しみです。








2019.08.25

ようやく久しぶりの備忘。というより日記。

 

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「法々面」荻野僚介、椋本真理子

 

荻野僚介さんと椋本真理子さんの二人展を先日、国分寺switch pointで拝見しました。

展覧会タイトルは「法々面」と書いて、「のりのりめん」。

これは椋本さんが好きな法面(のりめん)という言葉(建設工学用語で、盛土などで人工的に作られた斜面のことを指す)からきているとのこと。

ある種の良い抽象絵画を見ると走り出したいような、体が自由になるような心持ちがするのですが、この展示にはそれがあって嬉しい日でした。

壁面には荻野さんの新旧交えたペインティングが5点、椋本さんの彫刻は床に大きな作品が3点と壁に小さな作品が1点展示されていて、いろんな角度からじっと見て楽しませていただきました。

 

椋本さんと二人展をやったら面白そう、

とポロっと荻野さんが発言したことから成り行きで決まったという展覧会と聞いていましたが、作家自身が自分と近い感覚に対して一番その嗅覚が鋭敏であるのは自明のことで。二人の作品はとても相性が良いように思いました。

どちらの作品も颯爽と気持ちの良いところが似ている。

それは形態のシンプルさや色遣いとその絶妙なバランスの構成によるもので(その絶妙なバランスには緊張感があるのに、どうしてこうも自由な気持ちにさせてくれるのだろうといつも思います)

また、紛れもなく共通するのは作品を構成する面が色面、単色で均一に塗られているということです。

 

ただ、単色の色面は奥行きを描かれずにあくまで個性を消した面であるにもかかわらず、

二人の作品の主題は奥行きとスケール感があるもののようで、

そのように掴みとれない大きなものが、作品として息をしないで単色の剥製や記号のようになって止まっているユーモラスな感覚が、

二人の作品を凝視するたびに愉快な気持ちになって立ち現れるように思いました。

これはやはり実物を見ないと感じられないので、

会期中に実際に見ていただくのが一番、と思います。

 

法面とは、山という概念を改めてなぞって、規律正しい人の手によって幾何学的な世界に成形され、

しかしあくまで自然物としての内奥があるという奇妙な存在。

画家が絵の具という物理的材料を使って世界を概念的にキャンバスの上に収める作業にも似ている、と言うと少し乱暴ですが、

二人の作品と通ずるところは多分にあるようで、

あくまでシンプルに構成、配置、成形された色面の作品たちのなかには

世界の理や神秘さ、というにはもっと沈黙しているような得体のしれない、

なにものかが横たわっているようにも思いました。

 

二人の共通するのは色面もそうですが、色遣いの妙もその一つで、

意味深気な怪しい色や激しい色、儚い色は使わず、

平明で質量があって、それはそれでも無機質な色味にはならない、ただ主張ははっきりとされているポップな色彩という、

絶妙な色彩感覚で二人とも制作されています。

だからこそ、劇的でもささやかすぎることもなく、ぬっと立ち現れたような面白さがある。

 

ただ、椋本さんの好きと言う法面が、

自然を補強する形としての人工的なソリッドで極限化された線と形の美しさ、

方眼的な座標軸が存在するような数学的に計算された世界と自然物との不可思議な状態なのだと仮定して、

荻野さんの作品の持つ不可思議さはまた別のところにあります。

絵という命題の中でのみ生まれる秩序ある絵、

重量計からカレーといった具象的なモチーフが出てくるかと思いきや

抽象的な雨粒の軌跡、リズミカルな色彩のコンポジションまで一律にその色面世界に描く荻野さん。

その描くという状況そのものが絵画的法面なのだと、だからこそ

おそらくなんでも描けてしまう恐ろしいような部分が荻野さんの作品にはあるのだと思う。

一方で、世界の中の概念的な律動のようなものを荻野さんは俎上に上げている、と言うと言い過ぎでしょうか。

いつも思うのは、平板な色面で構成されているようで

作品は決してグラフィックでなくあくまでも、描かれたという画家の手仕事であって、

キャンバスの際まで色面が塗られたその絵画に呼び込まれる度に、

自然ではなく人間の力が何かの神秘を呼び込む力があるとすれば、

それはとても不思議なことだなと繰り返し思い到ります。

 

人の力、

それが椋本さんの場合は、モチーフとする人工的な力が入り込んだ風景に当てはまるのとは反対に、

荻野さんの場合は、人の力とは何か超越的なものと繋がるためのメソッドなのかもしれないなと感じました。

 

しかし、法という言葉は

人間の生み出した規則から宗教的な教え、自然の理までに使われる幅の広い言葉ですが、

そのようなものを軽やかに「のりのり」とするお二人の姿勢がどうも居心地よく、

いつまでも作品を眺めていられるような心持ちでした。

 

 

 

 

2019.03.16

間が空いてしまいました。

走り書きの備忘録。


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「Giant Chorus」渡邉 庸平 


渡邉庸平くんは1990年生まれ、私と同学年の作家。

彼の作品は学部生の頃から知っていて、その頃の私は現代美術という言葉を知らない頃でしたが、それはどうしても記憶に残るものでした。中でも彼の在学中の作品で記憶に残っているのは、虫眼鏡を使った映像でルーペに光が透過している作品。

彼の映像はいつも、作品の主題とは別に、映像それ自体が物を語る厚みを持っていて、そのお陰で私は美術の知識が無くても穏やかに彼の作品と対峙することができたことを覚えています。

視界のクリアなレンズで見ているかのような、触覚に近い気持ちの良さと、題材を確かにしっかりと物語ってくれる安定感。この2つをいつも感じていたように思います。

 


2017年の駒込倉庫や2018年の4649の展示を経て、ついにHAGIWARA PROJECTSでの個展開催、と聞き及び。私は純粋に渡邉くんの活躍を喜ばしく思って、勤め先を早退けしてオープニングへ向かいました。

(渡邉くんのツイートをすっかり見忘れていて。教えてくださった萩原さん、ありがとうございます。)

 


展示されていたのは「ジャイアントコーラス」という新作。

展示空間の正面壁に、レーザーの細い光線がうねるように踊りながら人の横顔のようなものを描き出す。

白い壁に映されるその青白い描線は明滅しながら形を変え、横顔の巨人が起き上がったり動いたりしているようなモーションを繰り返す。

オープニングの盛況のせいで展示物全体を把握するのが困難な状況でしたが、床には金属製の枠で組み立てられたような造型物が並んでいて、これは何かと思った時にちょうど「これはノの字型で、曲面がある金属と想像してみて」とテキストを執筆したI岡くんと遭遇。そこでふっと作品を掴むことができました。

 


映像を投影するときに光源とスクリーンの間に降り注ぐ塵を扱った過去作とも通じるように、床に置かれた造型物は展示空間の光や空気の流れなどを受け止めるかのように計算されて配置されていて、そのノの字の形に湾曲した不在の曲面があたかも反射をしている仕掛けになっています。(設置されているI岡くんの文章を読むとわかり良いかもしれません)

 

会場の右壁に展示された白黒プリントには、不在の面によって気流を変えられたこの空間での空気の流れを差す向きを、床に散らばった薔薇のトゲが指し示す様子が撮影されていて、

一方で会場には、トゲのない薔薇が瓶に生けられていることに気づきます。

実空間では薔薇のトゲさえも不在であり、壁面のプリントはまるで眼前で展示されている映像とは異なるパラレルワールドで撮影されたかのよう。

置き去りにされたイメージの中に残された手がかりから不在のものを追うような感覚と構造は、今年2月のmumeiでの展示「密度とエコー」での村田啓さんの写真作品とも繋がっているようにも感じました。(村田さんは渡邉くんと同じアトリエの作家です。チェス盤を動く駒を追ったカメラの視点、そのカメラが捉えられない死角が黒く映し出されている作品は、タイトルも"白兎を追う"というもの。)


私たちが見る事ができないもう一つの世界が、レンズの向こうに立ち現れる。

それはSF空間のようでも、世界の裏側の神話の世界のようでもあり。

彼の作品に度々現れる「巨人」は、かつての神話では神々のことを指す言葉であったことを思い出す。

 


不在のイメージである巨人が、不在の面の向こう側に立ち現れる。

 


写真や映像とはここにないものを残し、映し出す装置として生まれてきたものだが、スコープを通って通り抜けていく光線が描き出すその像は、無限にも拡大され、また逆に小さくもなりうる。

そして私たちは元の像がどれほど大きなものだったかを確認することはできない。

そこには、主観の位置、スケール、その測り方といった、私たちの認識と想像力が関わってくるものです。

 


形態を変えながらもこの同じ主題を扱う渡邉くんという作家は、

私たちの世界の捉え方について、空間や座標といった科学的認識を扱いながら、

私たちが未だ見ぬ時空間や平行世界とも繋がるような、次元を超えることのできる力を持っている一人なのだろうと思います。


映像からインスタレーションと、作品は強度を保ちながら拡張を続け、

巨人はゆっくりと動き出し、またどこかで違う形で現れるのだろうと、それが今から待ち遠しくなる展覧会でした。

2018.12.24-

ブログを始めました。日記なのか備忘録なのか。

口下手な自分には書き言葉が合うようで、という消極的な意味と、

書くことで伝えられることを増やしていきたいという前向きな意味も込めて。

 

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昨夜は寺尾紗穂さんのワンマンライブへ。
東上野にある「ゆくい堂」という工務店の関連のスペースROUTE 87 BLDG.の1階が会場。
前の銀座の滞在が圧してしまって、19時半の開演10分前に到着。上野駅から美術館側とは反対側の東に進み、歩道橋を越えて少し奥に行ったところに会場があった。木材であしらえたこじんまりとした会場入り口。通りを挟んだ先にはROUTE BOOKSという、緑豊かな本屋も。
入ると会場は満員、材木や工具が並んだガレージの中のような空間は薄暗くざわざわとしていて、皆会場に置かれたパイプ椅子や古びたベンチなどに座っている。天井は吹き抜けだが、楽屋代わりに使われているだろう小さな2階のスペースに灯りがついていて、そこから伸びる鉄骨の階段にもお客さんが座っていた。あとで寺尾さんが言っていたけれど、100人近い人が集まっていたらしい。
舞台となる奥にはアップライトピアノが置かれ、会場の中ではそこだけが煌々と暖色のライトに照らされていた。

時間になり、BGMの音楽が変わる。ピアノの音。2階の部屋のドアが開き、寺尾さんが現れる。遠くて顔は見えないが、ジャケットや取材写真で何度も見ていた黒く長い髪と、白いふわっとした襟のシルエットが印象的で素敵に似合っていた。あっという間に音も立てず素早く階段を降りて、お客さんの裏を回って舞台へ移動する。寺尾さんが通る一番狭い道を塞ぐように私と連れのパイプ椅子があったので、邪魔にならないよう椅子を畳んで立って待っていたために、図らずも肩が擦れるほど近くを通られた。俊敏な音のない動きでさあっと目の前を過ぎる様子に「今、風が通ったのか」と感じる。切り揃えられた前髪と長い黒髪も相まって、人ならぬ精か何かを見ているような、そんな心持ちになる。


着席した寺尾さんの話す声は訥々としていて、ただ一度演奏を始めるとその力強さに圧倒される。
知らない曲もあった。3曲目の民謡のような唄の音の響きに神がかったような光を感じて、目の奥が熱くなる。「花をもっと」「九年」「愛の秘密」「あの日」など、しっとりとしたピアノ曲が多く、ずっと延々に聴かせられてしまう贅沢なライブだったと思う。弾いているピアノは60年ほど前に作られたのだと言っていて、確かにライブの前半はどこかピアノが疲れた様子もあったほど。ただ、途中休憩の時に少し年を召された方が調律されて、調子を取り戻した様までもが美しかった。
当たり前だけれど生のピアノライブだと、ペダルを踏むときのクッという音や鍵盤からつながるハンマーの叩く音が繋がり響き合っていて、それは音楽と同様に、例えば寺尾さんが関心を持たれている民俗学や社会問題(というと大きすぎるくくりで他人事のようだけど、それは路上生活者のことや原発のこと)だったり、またライブ中に聴こえてくる外の声や観客のグラスを落とす音に細やかに温かく反応している寺尾さんの態度と同じように感じて、全てが繋がっているような大きな世界観の中にいるようだった。


寺尾さんが曲の合間にぽつりぼつりと話す話はどれも切実なことが多く、目を背けない事ができない、ということの苦しみはどれほどのことかと感じながら、水俣病の告発を続けた石牟礼道子のいう「悶え加勢」という言葉が残って離れない。すぐには抗うことのできない大きな問題に直面している人たち、その人と一緒に悶えることで支えること、という意味。
どこか失う気持ちが大きい都会の生活の中で、捨ててはいけない感情をそっと後押ししてくれる、留めておかなければいけない言葉。どこか遠くから声をかけるのでなく、苦しんでいる人々やそれに無関心な私たちをそっと隣から支えようとする素直な態度。そう言ったものが、寺尾さんが多くの人に支持される理由であって、また惹かれる部分なのだと思う。

ライブ後のアンコールは2曲続き、一番好きなアルバムと同名の曲「楕円の夢」で締めくくられる。会場を後にしても暫く身体が寒さを感じないほど、良い熱で終わる。


美術の仕事に関わる中で、芸術に関わる人が社会に対して何ができるのかということを悩むことは多い。社会の役には立たない、社会に関わっていないと呟いてしまう人もいれば、無理やりにも社会との関連性をコンセプトに美術を作らなければという人もいるような気もする。
何が正しいというわけではないけれども、素直にその表現はいいね、と声を掛け合えるような世界が私にとって理想で、そう言ったことを受容する人がどんどん伝播して増えていけばいいと思う。
大きな連関の中で、その中でも自分の思う一歩を踏み出していくこと。そんな姿勢を大事に来年を過ごせれば。


勤め先の展覧会もあと2日で終わり。平成最後の年末、気づけばあと7日。
年末に会える方は声をかけてほしいし、少し早いですが、来年もどうぞよろしくお願いします。