2021.8.23
気になっていた作品、I岡くんの投稿のお薦めもあり背中を押されるように朝八時の映画館へ。
8月20日に公開された濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」。
179分という長尺に関わらず時間はあっという間に過ぎていき。もう一度観たいと思えるほど、濃厚な体験でした。
濱口竜介監督はコロナ禍で去年の春に無料公開された「天国はまだ遠い」を観てから気になっていて、でも他にはまだ観ておらず。
村上春樹の短編をもとにした作品と聞きながら、その原作を読んだことがなかったのでシンプルなストーリーラインを想像していましたが、実際は登場する様々な人物の物語が交錯します。
主人公の舞台俳優・家福。突然の妻の死を迎えたその数年後、喪失を抱えたまま遠地での演劇祭に向かう。
そこで出会う無口な専属ドライバー、みさき。妻の浮気相手であった若手俳優、高槻。
行われる演目はチェーホフの四大戯曲の一つ、「ワーニャ伯父さん」。
絶望するなかでも耐えて、誠実に生きて行こうとする締めくくりがそのまま映画のラストにも重なっていく。
演出家でもある家福が作中で試みる多言語演劇は互いの言語が理解されないまま、それでも役者同士が互いの言葉に耳を澄ませ、そして同時に自分の台詞と役に対して真摯に向き合うことで成立していきます。
多国籍の俳優の中には手話話者の韓国人も居ます。
その彼女が、自分の言葉が伝わらないという前提にいるから平気だというシーンがありました。
自らの言葉が発話しても他者に届かないだろうという、当たり前でありながらも私たちが忘れてしまう真理。コミュニケーションのための基礎となる言葉さえも完全なものでなく、全てを伝えることはできない。伝わらない。逆に理解することも。
それでも誰かと真摯に向き合って行くことを思える人はどれだけ居るのでしょうか。
ニューノーマルを思いながら、そして昨今の政治やBLM、フェミニズムのことを思うと、私たちは共有するという幻想により近づいたはずが遠のいて、新しい分断の世界の中に泳いでいるようで。
共有できない時間と場所、主義と生き方、価値観が多様であって、全てを共通了解とすることの難しさ。多くの人が命を落として、触れ合うことの危険性のさなか。
分かり合えない、共有し得ないなかでそれでも探り合うこと。向き合うこと。
いまこの時期にそうしたことを思わせる映画であるのが先ず本当によかったけれど、あわせて脚本と撮影も素晴らしく、役者の良さの引き出し方も尋常でなかったです。そして音楽も。
泣きながら全てを了解して飲み込むような辛抱とカタルシス。
言葉以上に演技と映像、音楽が雄弁で、映画というものも一つの誠実なコミュニケーションになりえるのだろうとも感じる作品でした。