2021.8.2


日記として再活用してひっそりと。

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今日は国分寺Second.2で市川明子さんの展示。


こけら落としの木下令子さんの展示以来ご無沙汰してしまっていて、一橋学園での平櫛田中館のグループ展を見た帰りにそのまま徒歩で立ち寄ることにしました。




スペースに入るとまず空間が異様でおやと思う。

絶妙なスケール感で並ぶ家や部屋を模した模型が展示然と並ぶというよりは場の中で異様な形で幅を利かせているのでした。壁にかかっているドローイングも絵というよりは、何か完成していない不思議な走り書きのよう。

どれも市川さんが2日間みた夢の中での出来事を反芻する為に作られたもので、ドローイングは夢のなかのディティールを覚えておくためのメモ書きだったそう。



ぎこちない手作りの部屋の大きさは縮小された部屋ではあるもののミニチュアサイズまではいかず、私たちの体の大きさに合わせたようなプロポーションの模型となっている。その作品を私たちは覗き込んだり、上から見下ろしてみたりする。


極端に間延びした広い部屋、延々と続くキッチンにぽつんと設置されたシンクと冷蔵庫、壁にかかった黒い抽象画。踏み外してしまいそうな細長い煉瓦の階段や大きな暗い窓。


夢の中というのはちょっとおかしいけれど、でもディティールは怖いくらいリアルだったりもする。現実のどこかにその場があるかのように。

作品の中でも家具や建物の採寸はきちんとしたスケール感で作られていて、冷蔵庫はちゃんと開くし抽象画もカンバスを張られアクリルと油彩で描かれている。


夢の中で一人称的視点から急に俯瞰するようなアングルにカットが切り替わる瞬間、市川さんの作品を見るとそのときのような幽体離脱的感覚に陥る。

ストップモーションアニメの人形劇の舞台セットのようで、そこには誰もが不在なので夢の主体というのはどこにあるのだろうと思う。ここには市川さんもどこか不在のように感じる。



「夢の中で私の身体はそこにあった」という展示タイトルは夢の体験を現実に即した身体と結びつかせるのと同時に、ここは夢の中ではないということを突きつけるまた別の体験を示唆していて、ただ私たちはそのざらりとする境界に触れることができる。



境界について考えながら、マーク・マンダースの不在展を思い出す。あの巨大なセットのような展示空間にも、彼のための家具が88%に縮小されて自らの存在から離れたものとして存在する違和感という境界があり、あれも現実のままに夢の中に迷い込んだような展示でした。




一つ前に展示されていた神祥子さんの作品も見せていただき、反射や投影を扱う神さんの作品も画面の中のレイヤーは穏やかさを保っていても、描かれた顔のないような白い相貌の人物やチューリップを見ているとどこか危うい眩暈のような感覚があります。


神さんの作品も夢を追いかけ続けると危ない、ドッペルゲンガーに会うと死んでしまうという妖しい魅力も感じさせつつ、それでいて2人ともどこか淡白に穏やかにその現象を見つめているところに表現の強度があるようです。



古物にもきっとそうした様々な夢の宿りがあるので、Secondの1期のラインナップは頷けるもの。これから先の展示もまた折りを見て伺えたらと楽しみです。